「行けたら行く」は罪か?~道民的あいまい文化とシニアあるある~
Last Updated on 2025年8月18日 by 管理者 Nikifarm
おはようございます
朝一血圧(118/86/69)、健保薬(101/76/66)。
シニアになって「時間と心と選択」を自由にできたら
- やるべきことから、やりたいことへ
- こうあるべき、からの解放
- 進むべき道を、自分で選ぶ
シニアになり時間の選択を手に入れ、めちゃめちゃサラリーマン時代よりも楽に生活ができるようになりました。
目 次

本音で生きる
「行けたら行くね」…この言葉、主催者泣かせの代名詞です。
飲み会でも、同窓会でも、サークル活動でも、毎月の自治会の集まりでも。
仲間との参加確認を取ろうとすると、出てくるこのフレーズ。
「行けたら行くね」
最近、道民の友人たちとのやりとりであらためて気づいたんです。
この「行けたら行く」って、実はすごく深い文化的背景があるんじゃないかと。
なので、少しだけ考えてみました。
なぜ「行けたら行く」と言うのか?
1.断るのが申し訳ない
「行けない」
と言うと、相手に少し悪い気がする。
ちょっとでも可能性があるなら希望を残しておきたい。
でも、優しさのつもりが、主催者には地雷。
2.人間関係をこじらせたくない
はっきり「NO」を言うのは、気まずい。
断ったことでギクシャクするのも面倒。
「行けたら・・・」
でグレーゾーンに逃げ込む。
3.北海道の自然や距離感が生んだ文化
雪、吹雪、除雪、距離、運転事情…
本当に「行けるか分からない」日常生活がある、でも今どきそんなことはないけどね。
でもね…主催者はツライ
人数調整、場所の確保、座席表、飲食の数、バスや飛行機の手配等。
「来るの?来ないの?」が決まらないと
全部が中途半端で次に動けない!
これは大げさじゃなく、「行く」と言って来ないより、「行けない」と言って来てくれた方が100倍ありがたい。
「行けたら行く」は、保険?それとも呪文?
ここで、ちょっと立ち止まって考えてみませんか?
「行けたら行く」と言うとき、
ほんとうは “自分を守っている” こと、ありませんか?
「その日、行けなかったらどう言い訳しよう」「優先する他の予定が入ったらどうしよう」
「みんなに断ったと思われたくない」
つまりこれは“やさしい断り”じゃなくて、「後出し保険」。
気持ちはわかる。
わかります。
私も、組織に所属していたり、仕事の先が見えない若い時はそうでした。
でも、退職したシニアの私たちは、相手の時間も守るやさしさが必要かもしれませんね。
シニアあるあるも背景に
最近は、さらにこんな理由も絡んできます。
- 孫の面倒が急に入るかもしれない
- 家族の介護もある
- 自分の体調が読めない
- 病院の予定がずれることも・・・
どれもみんな大事なことです。
でもね、そういう理由があるなら、それって行かない前提で話してくれた方が、実は親切です。
じゃあどうすればいい?
「今回は難しいかも。でもまた声かけてね!」
「行けないかもしれないけど、〇月〇日にまでまって、最終返事します!」
これでいいのです、この一言があるだけで、主催者は救われます。
返事がないのが幹事さんは一番困ることですね。
さいごに
「行けたら行く」は、やさしさの仮面をかぶった曖昧の刃。
たしかに気遣いなのかもしれないけれど、イベントを仕切る人には、時に残酷な呪文の刀です。
特にシニア世代。
体の不具合も出てきて、予定が読みづらいのは当然でしょう。
でもだからこそ、
「今回はごめんなさい、次回また誘って」
という一言が、大人のやさしさではないでしょうか。
[おまけ]私の“予定”革命
私も、以前の公務員時代は「行けたら行く派」でした。
いつ仕事が入るか分からないので、常に予定は未定で約束はすべて無いことにしていました。
でもね、今ではGoogleカレンダーとにらめっこすれば即答できます。
「行ける/行けない」を即決する癖 がつきました。
なぜって?
自分の時間も、相手の時間も、かけがえのない
“命のかたまり”
だと気づいたからです。
だから今日も、きっぱりと言います。
「行きます」
この日から私のイベント準備は始まっているのです。






