付き合いだけの葬儀には参列しないという、私の流儀
Last Updated on 2026年1月18日 by 管理者 Nikifarm
おはようございます、室温17.7℃暖かい日が続きますね。
目 次
――会うべきは、その前だと思っている――
■ 突然届く、葬儀の連絡
先日、友人から連絡が来た。
「昔、〇〇で一緒に働いていた先輩が77歳で亡くなったけど。知ってる?川越で葬儀がある」
私は、少し考えてから、こう返した。
「私は行かないかな」
少し驚かれたかもしれない。
でも、これは気まぐれではない。
私なりに、すでに決めている冠婚葬祭に関する人生の一つの考え方だ。
年賀状を出さないと60歳で決めたのも同じ理由からだった。

■ コロナ禍で、腹が決まった
正直に言えば、
「人生で関わった人の葬儀なら、仲間も行くので
できるだけ参列してお礼を言おう」
という考えもあるだろう。
若い現役世代の頃は、知らない人の葬儀にも、上司から言われて
行く必要もないながら参列したものだ。
ところが、コロナ禍でさらに状況が一変した。
そして、私の中で葬儀そのものの考えが変わったのだ、
- 本当に近しい人で行えばいい。
- 他人は行く必要はない。
- 相手家族も本当はのぞんでない。
- 人間関係も特に変わらない。
それが答えだった。
シニアになったら、なおのことよほど親しい人でなければ参列しない。
葬儀とは、悲しみと不安が
ビジネスに変換される場所でもある。
だからこそ、
距離感を自分で決める必要がある。
人生の整理・断捨離とは、
こういう静かな決断なのかもしれない。
■ 葬儀に行く意味が、私にはわからない
少し率直に書く。
私は、
普段会うこともない、親しくない人の葬儀に行く意味が、よくわからない。
自分の人生で関わった人(元上司、同僚、同級生・・・)というだけで参列するのか。
一緒に働いたことのある人
だが、
- 退職後は会っていない
- 連絡も取っていない
- 話すこともないし顔もあいまいだ
その人の葬儀に、
「お久しぶりです(誰だっけ?)」
と心の中で思いながら頭を下げる。
それ、故人も望んでいるだろうか。
少なくとも私なら、望まない。

■ 会うなら、生きているうちではないか
葬儀には、本人はいない。
話もできない。
笑い合うこともできない。
それより、私は思う。
👉 会うべきは、亡くなる前ではないか。
- 元気なうちに会う。
- お茶を飲む。
- 近況を話す。
それができなかったのなら、
それがその関係の“最終形”だったのだと思っている。
■ もちろん私の葬儀も、そっとやりすごしてもらう
だから私は、
自分の葬儀にも来てもらう必要はないと思っている。
いや、天国にいるのでどう思うこともないか。
亡くなったあとより、
生きているうちに会ってほしいものだ。
それだけで十分だ。
だから、今は叔父叔母の葬儀に参列することもないし、
まして普段の連絡もしていない。
■ 「行かない」は、冷たさではない
これは、人付き合いを切る話ではない。
むしろ逆だ。
生きている人との時間を、ちゃんと大切にしたい。
そのために、
シニアになった私は
色々な伝統・儀式という形式から一歩、道を横にずれて生活することにした。
■ 時代は、もうこちら側に来ている
小さな葬儀。
家族だけの見送り。
あるいは、何もしない。
そんな新たな時代に、
私たちはすでに入っている。
私は、それを
少しだけ先取りして選んだだけだ。

■ それが、今の私の流儀
普段会うこともない人の葬儀に、
「昔一緒に仕事をしていたから」という理由だけで参列することはない。
行くくらいなら、その前に会おう。
今後、考えが変わるかもしれない。
人は変わるし、私もシニアだ。
でも今は、
この考えで、精神的・肉体的な無理を避ける生活で
人生の区切りをつけていこうと思っている。


